私の経験

幼少期〜小学生時代

 幼稚園時代、私の最初のお稽古事は、日本舞踊とお三味線でしたが、どうもあまり好きではなかったようで、小学生になると同時にピアノを始めました。5月末の雨の日、学校から帰るとちょうどピアノが運び込まれているところで、近所の人たちが表へ出てきて見学していたのを今でもはっきり覚えています。田舎だったから・・・今思うと笑っちゃいますね。
 当時初心者のピアノ教則本と言えば、バイエルとメトードローズ。ごくごく普通の日本のピアノレッスンでしたが、「練習しなさい!」などと言われる事もなく、毎日の練習が楽しかったです。お客様が来て「よしこちゃん、何かきかせて!」などと言われようものなら嬉々としてその時弾いている曲を弾きました。 ステージに出た時にカーッと眩しいライトを浴びるのが大好きで、発表会は特に嬉しくて本番が待ち遠しくてワクワクしていました。そして何を着るか、これも楽しみの一つでした。
 学校の学芸会の器楽合奏、合唱では、いつもピアノ担当。(ああ、合唱やりたかったー!) そうそう、テレビから流れてくるドラマの主題歌を耳コピーで弾いたりもしてました。 そんな小学校時代の終わり頃にエレクトーンとの出会い!! 楽器屋さんに、こんな楽器もあるよ!やってみない?と、勧められて始めたら、もう楽しくて楽しくて・・・

中学、高校時代

 中学時代は、エレクトーン命!、エレクトーン一筋の生活。伊東にはエレクトーンの先生はいなかったため、毎週木曜夜は三島までレッスンに通い、さらに月2回、学校を早退して沼津へ。東京から見える先生のレッスンも受けていました。1年続けたところ、学校から注意され、早退できなくなり、先生が沼津でのレッスンを終えた後、伊東まで回ってくださってレッスンは続けられました。 コンクールにも毎年出場し、本選出場は果たせませんでしたが(いつも地区予選2位)とにかく燃えてました。
 しかし、、、ピアノの先生から激しく非難され、、、 ピアノ(クラシック)至上主義の先生は、エレクトーンを「邪道な楽器」と言い、「ジャズ?ボサノバ?そんなことやっているんじゃ、ピアノ科は無理ね。音大に行きたいなら作曲科にでも行きなさい!!」と。 「は、は、はいっ!」と先生の忠告を素直に受け止め、作曲科へ進むことに決め、高校入試も迫った頃、作曲の先生を紹介していただきご挨拶に伺い、4月から通うことに決定。 こうして高校時代は、ひたすら作曲科受験の準備期間となりました。  地元のピアノの先生が、ピアノと聴音やコールユーブンゲンをみてくださり、日曜日は、いつもより早起きして午前に横浜でピアノのレッスン、午後は東京で和声や対位法のレッスン。そのあとエレクトーンのレッスンが入ることもあり、「お上りさんの東京めぐり」でありました。
 ピアノも和声も宿題がたくさん出ますから、学校から帰ったらピアノ。夕食後22:00まで再びピアノ。夜食後和声。というのが日課で、和声をやっていると面白くて夜が明けてしまい、学校へ行く時間になっても仕上がらないと学校は休むか遅刻するなんてこともしばしば。学校へ行っていても、苦手な体育や面白くない家庭科などはサボり、保健室で睡眠不足解消するか、音楽部の部室に篭って和声の宿題をやるといった“超問題児”でした。しかし、保健室の先生は話のわかるいい先生でした。病気でもないのにベッドに寝かせてくれて、時間が来ると起こしてくださった!!感謝です。
  東京に通っていたおかげで、伊東ではまだ手に入らないカップヌードルを買ってきたり(翌日学校に持って行ったら、みんなに味見されて無くなってしまった!)おしゃれなバレンタインチョコレートを買ってきたり、友達の誰よりも早くマックのハンバーガーを食べることができたり、、、今では笑ってしまうようなことがとても楽しかった思い出です。銀座のヤマハにもよく行きました。楽譜や五線紙、何でも手に入って有難かったです。

音大時代

 高校も無事卒業できて(よく卒業させてくれたと思います)晴れて音大生!
何が嬉しかったって、一人暮らし。学校の近くの1DKのマンションで、誰からも束縛されない時間は最高でした。 作曲科の1年生は4名。私以外はみんな浪人経験者。知識の量と深さが私とは全然違う!実力が違う!! いきなりガーンとパンチくらったような、ものすごいショックでした。 ああ、勉強しなくちゃ!! 自由な高校生活の反動もあってか、無遅刻無欠席の1年間。とにかく見るもの聞くもの何でも吸収しようと一所懸命でした。
 エレクトーンのレッスンも本格的に再開し、勉強にも遊びにも真面目に取り組みました。 ソルフェージュや合唱の授業は楽しくて好きでした。コンサートはもちろん、歌舞伎や美術館にもよく通いました。 1年生の時には、学園祭の実行委員にさせられてしまい、コンサートの裏方。 ステージのセッティングや椅子、譜面台の出し入れなど、これも初体験でした。
 体育実習がきっかけでスキーにはまり、車の免許も取り、気の合う友達にも恵まれて、よく一人暮らしの私のところに集まり、飲んで食べて喋って笑って、、、とにかく寝る間も惜しんでパワフルにエネルギッシュに活動してました。
 本当に何やってたんだか(笑)でも、あの頃のすべての体験で、今の私が出来上がっているように思えます。

音大卒業後〜ピアノ指導者初期

 大学院を修了して1年間はプータロー。 副科で取った打楽器の先生が、ご自分のリサイタルのために私に曲を書かせてくださって、それに没頭しておりました。 『ティンパニ、オルガン、金管五重奏のための“KYO”』という作品。パイプオルガンはちゃっかり自分で弾き、プロデュースも全面的に手伝い、本当に貴重な体験をさせていただきました。
 翌年、私の最初の仕事は、故郷・伊東でヤマハ音楽教室の講師でした。4〜5歳児のグループレッスンに右往左往する日々でした。1年経ち慣れてきてところでしたが、尚美学園で電子オルガンを教えることになり、ヤマハは退職して再び東京へ。専任講師として雑務に追われる日々が待っていました。 伊東の自宅で教え始めていた生徒はそのまま続けることにして、伊東と東京を往復する住所不定の生活が始まったのです。
 尚美2年目からは短大勤務となり、計4年間専任講師をしましたが、突如結婚することになり、非常勤に切り替えて、大学は週2日、週末は伊東でレッスンというサイクルに落ちついたと思いきや、今度は出産! この間2回発表会も行い軌道に乗り始めていたのですが、毎週の移動は、新生児には負担が大きかったようで、伊東のレッスンは断念しました。
 それからは、大学に週1日行くだけで、子育てに専念。 初心者(子ども)から音大生まで、ピアノ・電子オルガンだけでなくソルフェージュやキーボードハーモニーの授業など、幅広く経験したことは、今に生きています。

『初心者のためのコンチェルト』のきっかけ

 娘も4歳になろうという頃、エレクトーンでオペラやコンチェルトの伴奏するというお仕事が舞い込んできました。 そして娘が幼稚園に上がると、お友達が「ピアノ弾きたい」というのがきっかけで、再び家でのレッスンが始まりました。
 音大で教えている経験から、ピアノ科の学生はアンサンブルが苦手、ブレスができない、そういう人が多いとわかっていました。 それは、その学生がいけないのではなく、アンサンブルをやってこなかったことが原因です。 小さい頃から慣れさせてあげないとかわいそう!私のところに来てくれた子どもたちにはアンサンブルをさせてあげよう!そう思いました。
 エレクトーンのオーケストラサウンドで伴奏して“コンチェルト仕立て”にしたらきっと楽しいぞーー!と、 ひとりひとりのためにアレンジし、レッスンでコンチェルトを始めたのです。 1993年、7年ぶりの発表会で、全員がコンチェルトを演奏しました。 結果は大成功‼︎ みんなちゃんと私と目を合わせ、合図を送り合って演奏できたのです。 そしてお客様は拍手喝采してくださり、特に生徒のご両親やおじいちゃま、おばあちゃまはたいへん喜んでくださいました。

確かな手ごたえ

 初心者でもちゃんと音楽的な表情豊かな演奏ができると、生徒さんは嬉しくなり、より練習に励むようになりました。 また、このコンチェルトの経験が、ソロの演奏にも反映されて、フレージング(ブレス)や音色、表現がみんなとても音楽的になって行きます。 以来、生徒一人一人の希望やレベルに応じて、オーダーメードのアレンジを続けております。

締めの言葉

 音楽は、どなたでも最初は初心者からスタートします。 そんな初心者でも表情豊かに演奏して、早期より「表現することの楽しみ」を感じることで、演奏レベルに関係なく音楽に親しめると思います。 音楽を楽しみたいと、いらしてくださる多くの生徒様と共に、音楽と楽しく触れ合い、幸せな毎日を過ごしております。 これからも、30年以上のレッスン活動と音大での授業、レッスン経験を活かし、指導者として最適なレッスン方法を取り入れて、取り組んでまいります。